2月19日はプロレスの日


プロレスの日

小さい頃はゴールデンタイムでやっていたので見てたなぁ。というわけで、本日2月19日は「プロレスの日」。日本初の本格的なプロレスの国際試合が1954年の2月19日に行われたからだそう。その試合は、道山・木村組対シャープ兄弟。日本全国を19連戦して回ったそうです。

力道山という人

名前はよく知っているんですけど、流石に僕は現役時代を見ていないので、その人となり、よく知らないのです。なので、ざっくりと調べて見ましたよ。

力道山は現在の北朝鮮、日本の統治時代の1924年11月14日に生まれました。16歳の時に二所ノ関部屋に入門、そもそもは力士だったんですね。引退するまでの10年間の戦績は135勝82敗15休。最高段位は関脇、自ら髷を落として引退しました。民族の壁に阻まれて大関に昇進できなかったと本人は漏らしていたそうです。色々ある時代だったのかもなぁ。

相撲界から引退した後は、建設会社に勤務するも、喧嘩が元で知り合った日系人のレスラーと意気投合し、プロレス転向を決意します。その後、ハワイで猛特訓。帰国後は日本プロレス協会を設立、本格的に日本でのプロレス活動をしていくことに。その第一歩が、2月19日からの国際試合でした。日本柔道史上最強と言われた木村政彦とタッグを組み、シャープ兄弟との試合を14連戦。木村がシャープ兄弟に押されているところを、力道山の空手チョップで救い出すという図式がある程度シナリオが決まっていたようで、そんな展開が嫌になり木村と力道山は次第に不仲になったそうですね。なるほど。

そして木村は「真剣勝負なら負けない」と漏らし、「昭和の巌流島」と呼ばれる二人の戦いに発展。しかし、これも全国巡業の予定だったんですよねー。だから、そもそも勝ったり負けたりする予定だったそう。しかし、木村の急所げりで頭に血が昇った力道山は、木村をコテンパンにKOしてしまいます。倒れたマットには血だまりが50センチもできるほどの惨事に。当時の鮮明な映像記録がないため、この試合は多くの謎を残しているそうで、のちに様々な書籍などで紹介されています。なかなか興味深いので一度読んで見たいなぁ。で、この試合を機に力道山は国民的スターに登り詰めていったそうです。

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

破天荒・力道山

「昭和の巌流島」でもわかるように、力道山って人はかなり気性の荒い性格だったようですね」。そのエピソードがなかなか無茶苦茶です。暴力沙汰は日常茶飯事、飲むと暴れてテーブルを叩き割り、ガラスのコップをバリバリと砕いで食べたり(怖すぎるでしょ)、暴力団とのトラブルも数多く。
その性格のせいか、1991年に刺殺事件が元で命まで落とすことになりました。興味のあるかたはまずはここで簡単に調べて見てくださいな。ヒーローなんでしょうけど、かなり困った人だなぁ、って印象ですよ。

力道山の真実 (祥伝社文庫)

お相撲さんの誕生日

プロレスラーの誕生日はないかなぁ、と思ったけどあまりメジャー級の方はいなくて。お相撲さんの誕生日ってことで。まずは、初代貴ノ花である貴ノ花利彰さん。花田虎上さん、貴乃花光司のお父上です。息子さんは今、特に話題の人ですよねぇ。これからの相撲、どうなっていくのかなぁ。
で、もう一人は、ブルガリア出身の琴欧洲勝紀さん。イケメンの人気力士でしたよね。最高位は大関ですよ。力道山の時代は難しかったですけど、逆に今では外国人の大関や横綱がいっぱいですもんね。いやぁ、時代は変わっていくんですね。

はい、他には今日はこんな日でした。それでも地球は回っていると地動説を唱えたコペルニクスにちなんで、彼の誕生日の今日は「天地の日」でもありますよ。

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